がんの在宅療養 地域におけるがん患者の緩和ケアと療養支援情報 普及と活用プロジェクト
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ご家族の体験談集

支援は一歩ずつ段階を踏んで

広島県 50歳代 女性

夫は58歳でしたが、末期がんとの診断で介護保険の対象でした。担当のケアマネジャーさんが看護師さんということもあり、今後在宅で過ごすためのさまざまなアドバイスをいただきました。子どもたちは県外にいて頼れない状態でしたので、外部の方々のお力をお借りするしかありませんでした。お風呂や手すりなどの住宅改造でケアマネジャーさんをはじめ、いろいろな方々が少しずつ家に来られるようになり、在宅医、ヘルパーさん、訪問看護師さん、在宅リハビリテーションの理学療法士さんの方々を、夫は自然に受け入れられるようになりました。また、夫に「備忘録」として日記のように書いてもらっていたので、自然にノートを介して話をすることで気持ちを知ることもできました。「エンディングノート」というと構えてしまいますが、一冊のノートを交イラスト換日記のように書くほうがかしこまった話も違和感なくできたように思います。

※エンディングノート
人生の終末期にあたり、ご本人の想いや希望をご家族などに伝えるために書きとめておくノート


今とこれからを話し合う

鹿児島県 40歳代 男性

父ががんとなり自宅での療養が始まるにあたり、今まで話したことがなかったことを話すようにしました。そのなかで、これからの療養にあたり、費用を考えなくてはなりませんでしたが、家計管理は父がしていたこともあり、このとき初めて家計の実情について知りました。

民間の医療保険にも入っておらず、また預貯金もほとんどなく自宅療養を始める以前に、治療の費用の捻出もままならない状況でした。年金は十分にあったのですが、その年金が父の兄弟への貸し付けにまわっていました。

治療や自宅療養に必要なお金を確保するために社会保険の利用を検討し、治療方法の再考などにもお金が最大の問題でした。今は兄弟からの返済を含め、なんとか治療と自宅療養ができています。家族が全てを話し合うところから心構えや準備が始まると実感しました。

家族は主役ではなく、本人の想いに寄り添うことが大切

40歳代 女性

父が、命の期限を告げられたとき、病弱な母に代わり娘である自分が全てを取り仕切らなくてはならないと思っていました。今後の治療方針、療養場所、生活など、何から手を付けたらよいのか…。まず、本やネットで情報を集め、親戚や友人に相談しながらも頭の中が混乱していました。そんなとき、知り合いの人から「決めるのはお父さんだろ。それはお父さん自身の問題だから、あなただけで決めるべきではないのですよ」と言われたのです。一瞬理解できませんでしたが、はっと気づきました。自分がキーパーソンとして全てを背負うのだという過度な気負いから、私は自分の立ち位置を勘違いしていたのです。中心は父本人であること、選択や決断を迫られたときには、「父の意思と願いにいかに沿えるか」を判断の基準にするということ。そんな一番大切なことを見失っていました。父の人生、父と母の夫婦の物語の主人公はあくまで父、あるいは両親なのだから、脇を固める私たち家族は自分の思いや他人の意見に振り回されず、ただ裏方として主役を支えながら物語の最終章を見届ければよいと思ったとき、覚悟ができました。

チームプレーでQOLアップ

広島県 50歳代 女性

夫は「多重がん」と診断されて、いつ、どこに転移や再発をするのかわからない状態で不安を抱えながらの療養生活でした。そんなときに24時間体制で在宅医を始められた医師を紹介していただきました。医師もまだ手探り状態のなか、担当医との連絡を取っていただきながらの在宅生活でした。夜中の異変にも対応していただける心強さは本人にとっても家族にとっても安心の重要なポイントでした。また、日頃ケアしてくれる訪問看護師さんに加え、在宅リハビリテーションをしてくださる理学療法士さん、薬を持ってきてくださる薬剤師さんなど、在宅でも多くの方々に関わっていただけることが心強く、安心して生活できました。

「病人」扱いせず、普段どおりの生活を心がける

大阪府 60歳代 女性

訪問看護をお願いして2カ月が経ったころ、食事のことで言い争いになったことがありました。夫にすれば、食べたくないのに無理に食べさせようとする私に腹が立つ、私にすれば、何とか食べてもらおうと一生懸命なのに、と互いにストレスがたまってきていたのでしょう。

冷静になると、当然私が悪いことに気づき「ごめんね」と謝ると、「こちらこそ」夫が小さい声で答え、今まで言ったこともない言葉に思わず吹き出して2人で笑ってしまいました。

夫を介護することに必死で、「病人」扱いされ焦りいら立つ夫のつらさを思うゆとりをなくしていたことに気づきました。病院なら「病人」ですが、家では今までどおり、一家の主としての日常生活をさせてあげるべきでした。

それ以降は、過去のこと、将来のことなど2人でいろいろ話す時間が増えました。在宅の良さは、そのような話が率直にできる時間がたくさんあることではないかと思います。

夢を実現するために、「無理」と思わないで、声に出してみる

広島県 50歳代 女性

夫の夢は退職後に夫婦で車に乗って日本一周することでした。しかし、58歳でがんの治療のために退職せざるを得なくなり、旅行も夢のまた夢となってしまいました。そんなときに「一番行きたかったところは?」と聞いたところ、「北海道の摩周湖」との答えでした。すでに進行して体力もだいぶ落ちておりました。主治医に相談したところ「知り合いの医者が北海道にいるので連絡しておくから安心して行っておいで」とのこと。その言葉をありがたくいただき2人で摩周湖を目指して旅をしました。霧も晴れ、念願の美しい「摩周湖」に出会えました。半年後、今度は自信がついたのか、「台湾の故宮博物院」に行ってみたいと希望し、在宅医が「知り合いが台湾にいるから連絡しておきますよ」と言ってくださり、娘と3人で行くことができました。最高の二つの思い出ができました。

笑顔と活気が戻り、準備を整えて故郷へ

40歳代 女性

父が自宅での療養を決めてから2カ月。往診の先生や看護師さんの協力で病院にいるときよりも痛みがやわらぎ、本人、家族が想像していた以上に動けるようになり、笑顔と活気が戻りました。人間は欲がでる生き物のようで、生まれ故郷の佐渡に最後にもう一度行きたい、先祖の墓参りをしたい、親戚にあいさつしたいと希望するようになりました。父は筋金入りの頑固者。言い出したら聞きません。娘としても、何とか希望をかなえてあげたいと願い、往診の先生と看護師さんに相談しました。先生には、万が一のための紹介状(診療情報提供書)を準備いただき、看護師さんには旅行中の薬の準備、往復の新幹線やフェリーなどの移動手段について助言をもらい、準備万端でいざ佐渡へ。家族全員で降り立った佐渡の澄み切った空気は、移動の疲れを吹き飛ばすほどでした。

どんな些細なことでも本人と家族で常に情報を共有することが大切

兵庫県 60歳代 男性

私の兄は、肺がんで亡くなりました。がんが見つかってから1年あまりの闘病の末でした。在宅で抗がん剤治療を続けていました。がんが見つかってからは、どこの家庭でもみられるかと思いますが、生活の全てが一変しました。子どもに恵まれず、代々続いた田舎の家の後継ぎ問題など課題山積のなかでした。妻である義姉はパニック状態でした。家庭内外のこと全てを兄に頼っていたため、どん底の悲しみと将来への不安で頭の整理がつかない状態でした。そこで弟の私が、治療の相談や付き添い、生活の手助け、話し相手など全てにおいて補助的役割に徹することとしました。

特に力を注いだのは、病気の内容を徹底的に調べることでした。いろいろな病院に電話したり、納得するまで主治医に質問したりしました。そして全ての点について本人に口頭・筆記で丁寧に伝えました。本人はそのつど安心したり、落胆したりしましたがそれでも気持ちのうえで少し楽になったようです。一方で看病しているあいだはどんなにつらいこと、どんなにつらい場面でも本人を含め、家族と関係者全員が必ず共有することに努めました。そうすることで要らぬ不安解消につなげることができました。隠す=不安、隠さない=安堵が肝心なことのように思いました。

短期間でも食欲が戻って笑顔を見せた夫

40歳代 女性

肝臓がんと診断された夫は、入院中、食欲が落ち、ほとんど食事できなかったため点滴をしていました。退院してからも看護師さんに手伝ってもらい、鴨居やポールハンガーなどを使って点滴を続けました。数日すると、夫が「点滴、やめられないかな…。お腹が空かないんだよ」と言いました。「では、少しずつ少なくしてみて、食べられるようならやめましょう。身体のだるさもとれるかも」と笑顔の先生。先生のおっしゃるとおりで、点滴をやめると大好きだった中トロを食べたいと言って平らげ、不思議なことに腹水も減り、だるさも軽くなりました。末期といっても病状が変わるのですね。残念ながら食べられた時間は、そうは長く続きませんでしたが、中トロを美味しそうに平らげた夫の笑顔は昨日のことにように覚えています。いよいよ食事ができなイラストくなりましたが、夫は点滴を断り、腹水も退院前のようにパンパンになることなく穏やかに天に召されていきました。

「みんなが集まる日に旅立つわ」

50歳代 女性

母は80歳、進行した腎臓がんでした。実の娘の私に「介護で面倒をかけて申し訳ない」と、着替えを手伝う、トイレに付き添う、食事を出すたびに謝っていました。私としては、「面倒をかけてくれていいのよ、もっとわがまま言っていいのよ」、とやさしく伝えるのですが、母は変わりませんでした。「介護で迷惑をかけるなら、早く死んだほうがまし」、とまで追い詰められているようでした。訪問看護師さんは、そんな母の心の痛みを訪問のたびにじっくり聴いてくれていました。でも特にアドバイスをしているわけではなかったようです。

ですが、ある日突然、看護師さんと話している最中に、視線を窓に向け、希望に満ち溢れた顔になりこう言いました。「おばあちゃんは、この心の痛みを天国まで持っていくわ。そう、そう決めたの。そして、家族みんなが集まる日に旅立つわ。準備をお願いね」と。それからも、申し訳ない、と介護のたびに謝ってはいましたが、イラスト心は明るく晴れ晴れしているようでした。そして、本当に、宣告どおり家族が集まった日に、皆に見守られるなか、安らかに旅立ちました。

在宅療養のご褒美は孫娘が施したエンゼルメイク

60歳代 女性

85歳の母は、肺がんで亡くなりました。私と孫3人で手をつなぎあい見守るなか、静かに息をひきとりました。息がとまった時間を先生に連絡すると、間もなく到着し死亡確認をしてくださって、看護師さんと一緒に洗髪し、身体を拭き、大好きだった訪問着に着替えました。そして、看護師さんのお薦めで20歳代の孫娘が死化粧を行うことになりました。

眉毛を整え、ファンデーションを綺麗に塗り、アイライン、チーク、口紅とすすめていくと、母が生き生きと蘇ったようになりました。肺がんとわかってから、血色も悪くつらそうだったけど、最期のお別れの顔を見るたびに全ての苦痛が吹き飛んでいったように感じました。父の時は、病院で亡くなり、家族は病室の外でケアが終わるのを待っていました。在宅で、亡くなった後のケアを家族が一緒にすることで、こんな素敵なプレゼントが待っていました。

妻が教えてくれたこと

50歳代 男性

私が妻を亡くしたとき、2人の娘はまだ小学校と幼稚園に通っていました。妻がいなくなり、私は途方に暮れることもありましたが、仕事や家事に、子育てにと、とても忙しい時間を過ごすことになりました。ああ、この料理はどうすればいいのだろう、娘たちとはどうコミュニケーションをとればいいのだろうなどと、迷うことは多々ありましたが、妻が教えてくれたことを思い出しては、何とか今までやってくることができました。今年、末の娘も成人を迎えます。以前妻がよくつくり、今では私の得意料理となった栗ごはんで末娘の20歳の誕生日を祝いたいと思います。

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掲載日:2015年12月21日
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